005:裏庭
何年かぶりに、梨木香歩『裏庭』を読んだ。
長いつきあいになる友人の、中学受験のときの「友」だったと聞いたのだ。私たちの代の、受験の頻出図書だった。私も小学生の頃から、何度か読んでいたはずだった。
読んでいて何ヶ所も、自分の心のとても深くまで、この物語に出てきたいくつかの表現が食い込んでいたことに、まず驚いた。「いつかどこかで聞いたあんな表現」というもののいくつもが、ここにあった。
“寄木細工でできたような顔立ち”だとか、“「好きなときも嫌いなときもある」”だとか、――どちらかというと、文体表現そのものよりも、そこに描かれている物事の見方、切り取り方が。
それは共感して覚えているのではなかった。あまりの価値観の提示に、ショックを受けたために覚えていたんだろう。
友人にしろ、私にしろ――、
小学生読者たちに、この小説はどこまで深く切り込んでいったことか。印象的に染み込んでいったことか。
その事実を思うと、読み終えた文庫本をながめやる自分の目つきが変わるようで、なんだか自分でも怖くなる。
それはそれとして。
物語を読み終えて、「解説 河合隼雄」の語句を目にしたとき、ウアアアアァとうめき声でもあげるように本を閉じてしまった。
なんとおそろしい!
河合隼雄先生も、初めて“出てきた”のは中学受験のときだ。それから、特に近年、著書や対談集を夢中で読んだ時期があった。
伝説の少女漫画である『風と木の詩』愛蔵版、その初めの巻の巻末に、「解説 河合隼雄」の文字はあった。形而上の読み解きにおいても、……そして形而下のネタバレについても、凄まじいものがあった。
私はその解説をほとんど暗記するまでに読み返し、頭を抱えた。かくて、少女漫画、少年漫画、エヴァンゲリオンやらセカイ系やらの分析書籍を読みあさる時期に突入した。
――創作物にたいする心理学的分析とは、おそろしいものであった。
だから私は、今回はもう数年前とはちがって、そのナイフのような視点を得た状態で、『裏庭』を読んでいったのだ。
それは、泣きそうになることだった。
涙腺が刺激されるような「泣きそう」ではなくて、たとえるなら動物番組で、救い難い運命に襲われる子どもの動物を見せつけられたときに、テレビの前の人間がみせる「泣きそう」に似ている。
…………。
そういう視点を知っていればこそ、もう初めのほうで、気づくのだ。「このファンタジーは読み解いてはいけない」と。
ファンタジー読み解くべからず、といったことを、ゲド戦記の作者も言っていた。
『裏庭』の世界は、その「読み解きの視点」に対して、あまりに無防備であるように感じる。小学生の読者ですら、「裏庭世界のこのひとは、現実のこのひとで、だったらあれはどれ?」という視点で読んでいく物語だ。その行為は、作中のスナッフに、詮無いこと、とたしなめられる。
無防備であるから解体するな、なんて言いたいのではない。
逆だ。
ハシヒメ、テナシ、竜のガスの呪い、根の国の事象のひとつひとつ……、霧に包まれた、あの裏庭の世界で起こる象徴的な、さまざまのこと。
この世界は、構成物をいくらモチーフと切り取って読み解いていっても、論理的に安定した場所へは帰結しないだろう。
しかしひとつ読み解けばそこからは、もやに紛れていたたくさんのタブーが溢れ出さんばかりの印象がある。
きっとそこから出てくるものは、「地の文にそこまでは書かなかったぞ」といったような深さで、読み解いてしまった者のトラウマをえぐりにくるに違いないのだ。
「解説 河合隼雄」だって?
なんとおそろしい……!
たとえば根の国についてきたあの「タム・リン」も、何の象徴であったのか、考えが巡ってしまうのは、とても苦々しいことに思われた。
まるで「さっちゃん」が、自分の心の奥で見てしまったものに「蓋をした」ようにして、そこに置いておくしかないものがある。この物語の道中、いくつも。
主人公の照美が、なぜバーンズ家の者でないのに、裏庭の特別な者になれたのかという不思議に、作中でレイチェルが答えているシーンがある。
「病んだ裏庭が照美を必要とした」、「新しい血を入れて活性化しようとした」と。
そこを読んで、ああ、と納得できた。
この物語の論理は、植物的だったのだ、と。
この物語に異論を唱えようとおもったら、そのひとは、自分の深層に降りていって物語をひとつ作ってみるよりないと思う。
そうしてはじめて、そのひとの世界とこの物語の世界の差異が、明らかになることだろう。
それはきっと、そうやってしか、比較できない。
論理的な帰結のないもの、そのひとのたましいが、これまでに受容し醸成させてきた印象群が、「同じものを見ても、こんなに違うんだねえ」と見て取れる、それだけだと思う。
(そういうことでいったら、「同じもの」、人類・あるいは民族総体の持っているイメージ(それこそユングの集合的無意識?)を、そのひとなりに切り取ってファンタジーに描く、というのは、すごく興味深いことなんだろう)
この前に読んでいた、現代フランス作家の『タナトノート』。
幽体離脱によって死後世界を探索していく話で、チベットやインド、東洋的な死生観と死後の世界の印象が、西洋の伝統的な天国や天使の世界にちょうどよく(真実味をもって)織り交ぜられている。
きっと、西洋の見方ではこうで、東洋ではこうで、人類総体の真実としては、死後世界はこういう感じだろう、と。
だけど、その小説では、みんな死後の世界へは、飛んでいくのだ。物理的に、宇宙の彼方へ飛んでいくように。
伝統的な日本の死の世界は、「根の国」であるという。
それは地の底に降りていくイメージのあるものだが、地獄といっしょくたに論じられる場所にはないような、
……少なくとも、個人的には想像のつきにくい世界だった。
その地の底の国のイメージが、『裏庭』では色濃く描かれている。地底旅行のように、不思議の国のアリスのように、降りて、落ちていくイメージで。
だからなんだ、と言われると、
もうそこからは、
私も私の「物語」を持ち出して、「私の場合は地の底というと、これこれこういうイメージなんだ」という論に持っていくしかなさそうだ。
そういう、深層世界を反転させて描いてしまう創作者にとって、まるでテルミィのあの服のような創作品を持ってしまう者にとって、読み解きの視点というものの、いかにおそろしいことか。
あるいは、
いかに一笑に付す・付されるべきものであることか。
…………。
個人的な感想を抑圧した結果、こんな考察の展開になってしまいましたが、 そういったわけもあってこの一年で、私は批評・評論なるものが恐ろしくて、それをする立場を捨ててしまったのです。
友人にとって「受験の友」であったという『裏庭』は、私にはむしろ「トラウマ案件」で、今回読み返してもやはりたくさんの「小さな傷」を私につけていったのでした。
「大きな傷」になりそうなところ、そこを暴きだしてえぐりそうなところは、見ないように、考えないように致しました、私が私のことを暴いて考える材料は自分の創作品だけで充分です――、
というのを長々と書いてしまったのです。
だけど本を返す前に、「解説」は読まねばなるまいだろう。
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ちなみに私が小学生の頃、受験のために接した本のなかで「友」と呼べるほどに思ったのは、
『あのころはフリードリヒがいた』(リヒター)
と、
『夏の庭』(湯本香樹実)
でした。
当時から「死の香り」に惹かれていたのでしょう。
このブログデザインを見るにつけ、自分の趣向の生命力の薄さを感じずにおれん、今日この頃です。