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016:なんとはなしに思うこと

日々のこと 自分のこと

いちど生まれたら 死ぬまで

自我は途切れることもない。

 

いつしかみんな、それが普通のことになっている。

もとよりずっと普通のことだったかのように。

 

生まれる前、死んだあと

今思っている自我でなくなっているはずの期間も

悠久の時 何千年、何万年、もしかしたら何億年を

意識はずっと 今と同じように目覚めている。

まどろむことはあっても……。

 

いちど生まれてみて 今に至るまで

表層意識ですら あまり途切れない。

 

表層意識のままでいても 今は

「永遠」とか「心の中の宇宙」と普遍的に呼ばれてきたものを

自我から伸びる精神構造のモデルとしてひとたび把握したように

感知し、心の有り様によって 触れることができる。

 

そこまで おそらく生前や死後の意識と近い感覚に

立つようになった自我というものは、

もうきっと 死んでからも 途切れることもなく

その自我であり続けうる意識になったのかもしれない。

 

案外、

スピリチュアル的な「覚醒」「目覚め」というものも

言ってしまえば そういうことなのかもしれないと思う。

 

 

離脱体験だとか、

高次の自己というものの認識、融和だとか、

あるいは日々の感情の体験を把握するようになることとか、

「魂の意識に目覚める」という道には、いろいろな標識がある。

 

 しかし目に見えない世界の嵐が過ぎてみれば、

  

(まだ私の視座は 深く 現実にあって

むきだしの魂のまま ほかの 悠久の自我を泳いでる人たちに

向き合うことはできずにいるけれども、)

 

(あるいは日々の感情の体験の中では、

東洋宗教的な「悟り」や、ヘレニズム哲学の考察した

感情を見つめる境地に 常にいられるわけではないが、)

 

ひとたび得た いくつもの その精神構造モデルたちは

びっくりするほど頑丈で普遍的なもので、

 

(ほとんど 図画でしか描けないようなものたちだが)

 

自我に組み込まれて、もう、離れないように思う。

生きていて 現実の深度をめまぐるしく浮沈していく中、

あるいは魂が 悠久というスパンにさらされる中、

自己というものがこれから どれだけ刷新されても、

それが磨耗することは ないように思う。

 

 

--

性別というものについて考えていたんだけど、なんか、こういう話になっていっちゃうんだ。

 

ルドルフ・シュタイナーがさらっと書いていくような、魂/霊/身体それぞれの性別というものの有無について考えていたんだけど、

 

要約すれば「心の中の宇宙をいつも感じてる」とか、そういう言葉で感覚的にぱっと言えるようなことに着地しただけかもしれない。