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008:別の言語の雑記

自分のこと 日々のこと 雑記

 満足できない。

 満足したらおわり、というような以前の幼稚なストイックさはもうないとはいえ。

 水木さん(前述)の言葉を何となく借りるなら、「腹」にくるものが、ほしいんだ。物理的に「腹」を殴るようにくる、言葉や思いを描いたものがこの世にある、たしかにある。生きていて、ある。

 

 それが水木さんの出征前手記だったりもしたのだけど、それももはや家では読めない。なぜかは省く。

 

 なぜかは省くよ。

 なぜかの部分に、いろいろなことが詰まっている。

 それは初対面めいた、もう久しぶりになってしまった友人らには説明ができない。

 省くの部分に、いろいろな思いを詰め込んで、

 いろいろなものを魂レベルの未来まで背負っていかないと。

 

 後悔しないように、

 とにかく後悔したくない。

 崖っぷちが迫っているのはいつも傍目に見えている。

 私の人生の崖っぷちじゃなくて、時代の、世界の、終末のがけっぷち。

 

 それなのに時代も、世界も、終末も、

 某国の大統領選挙みたいに道化めいた様相しか呈さない。

 それでいいらしい。

 それでいいんだ。

 残酷を塗り籠めて、真理や知識を天界に囲ったまま世界は進む。

 それがきっと優しい世界だ。

 

 天界の真理や知識を卸してくることはきっとつらい。

 あるいはつらくないと思うのならそれは私が慣れすぎてしまった、その残酷さの零下の温度に。

 それでもう

 死に行くことに対してあらかじめこんなにも冷静で

 それは生きているものに対してはあまりにも冷酷になる。

 

 あきらめきっている。

 あきらめきった先に光はある。

 その光のもとには、幸せも歓びもある。

 愛もある。慈愛や博愛がある、欲愛もあろう。

 だけど欲はなかろう。

 あきらめきった先では、欲はみな輝いて

 欲だけが 私から奪われたものとして 在りし日の若さの象徴みたいに輝いて見えるだろう。

 

 それなのに今は、感じ溢れるほどに若いものが溢れてくる。

 幼さをかみしだき、若さをさっと通り越して

 そのまま老境への階段を飛ばして死を知ってしまったとき、

 その人生では

 魂は今までのすべての自分の「大人」を昇華するのかもしれない。

 

 それで今、特に昼や夜にもてあます若さについて

 私はこうして真朝にしかつづれない。

 正気なんだ。朝の正気。清々しい光にだってかけよう、

 

 あの若さとしか呼びようのないもの、

 夏へ向かうもの、体の奥底から湧き出ずるもの、

 それが一瞬にすべてを感じることを求めてやまない。

 そういう生き方を求めてやまない。

 もっと具体的には

 人と出会っていくことを、

 がむしゃらさをもう捨てた上で日々冒険していくことを、

 美しいこの世界をそうやって「美しいなぁ」と感じるような瞬間をずっと持ち続けていくことを(それは連続させては意味がないだろうに、できることなら連続の写真の連写を連打するように)、

 集めることを、

(それらを)

 

 求めてやまない。

 それが欲にまでならずにうずく。夜になって。

 もう眠る頃になって、毎晩、

 満足ができない。

 

 

 死の淵にふれてから

 魂の旅にでるまでに

 毎朝は生きてる歓びを感じる儀礼だった。

 

 だけど旅から帰った今は

 毎朝は毎朝違う。

 吹き荒れる透明な嵐は

 もう私の体も精神も傷つけないけれども

 依然として すべての瞬間に激しい質量を持ってる。

 

 だから全然、一日、一週間、一年、

 そんな時間の単位、世界の単位が

 速く過ぎ去るだなんてこともなくて、

 その体感時間の差がタイムマシン、タイムスロットみたいに

 私と彼の岸――かつての友人ら、今も命ある者たちの岸、

(それを彼の岸と呼ぶしかないのがこの光のもと、

 今の私の場所、居場所だが)

 そこを隔てていく。

 そして彗星が巡るみたいにまた

 引力や斥力でつながる。

 一瞬間を、一時間くらい、連続させた期間に、

 途方もない質量の

 思いのやりとりがある。

 それで僕らはつながる。

 

 

 僕が 私が

 そんなことはもうどうでもよくなって

 統一された「わたし」は

 男性的に 月のないのと融合するし

 女性的に 左脳の運行を運動に落とし込む。

 アインシュタインを友達のように感じることや

 月の御子の方に日々のなぐさめを求める弱さや

 そういうすべて「極み」のことを

 孤独でなく

 高さとして感じるよう

 いつも感情を変換していくしかない。 

 そういう発作が、もしも再発したときに。

 

 そうでないと、この地上を歩くとき

 あまりに美しいこの地表面の風や色や天然や人工物の調和を

 ただみな風や色や天然や人工物とともに歩くとき

 もうそこに

 語り合う器官を持つ生き物と出会う

 理由は いなくなってしまおうというもの。

 

 なんでそうなるんだろう。

 こんなにもすべての瞬間

 語り合うことを求めているのに

 なんでそうなってしまうんだろう。

 そこに誰かいますか。

 そのレイヤーに誰かいますか。

 プログラムされたようなその

 天井あるいは地表に敷かれたレイヤーに

 欲心ある者は誰かいますか。

 

 きっとあの人はいる。

 札幌の山に登っていったひと。

 きっとあの人もいる。

 性別をいつも歌っているひと。

 きっとその人らはすんなりと

 ひょろりと猫のようにそのレイヤーに現れる。

 あるいはそうだ、

 電話を鳴らしたら誰だってそこに

 ラジオから出てくる音声みたいに現れて

 みんな 郷愁も懐古もすべてうっちゃったところで

 新鮮な現在のもとに接続される。

 そのくらい わたし

 離れていたことが長かった、

 きっとこの軌道は 彗星だから。

 

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(言いたいことはもう

 この言語(詩めいたもの)でしか書きようもないんだな、

 でも私は この質量ない風の言語を

 やっぱり愛していると思うし、自然だと思う)